平家谷、白いものを嫌い赤いものを尊う風習が残る場所!(平清盛ゆかりの地 福山市沼隈町中山南)


先の記事に書いた通りNHK大河ドラマ平清盛」について本を読んでいたら。
今まで源氏や平氏の事を意識していなかった福山市の場所が、源平の戦いにゆかりのある場所だったりすると知って再訪してみたい場所が増えるばかりの私。
そんな中で、1/3に行ったのは福山市沼隈町中山南にある「平家谷」。
【平家谷に平家が逃げるまでの歴史の事を書いた、私の過去記事はこちらから】


以前行ったのは歴史を意識せずに「平家谷 花しょうぶ園(季節は6月ごろ)」に、「つばき園(季節は3月〜4月)は行ったことが無いので季節の頃に行ってみたい(*^^)v
【花しょうぶ園に行った私の過去記事はこちらから】


 
以前行ったときには、こんな綺麗な真っ赤な案内板は無かったんですが。(2011年12月に建てられたらしい)
八日谷貯水池の所から、あちこちにこのような赤い看板が!!!!
実はこの平家谷は、源氏の白旗をイメージする白色はタブーなんですって。
だから赤は保護されて、尊ぶ風習が残っているんだとか(*^^)v
八日谷貯水池の所(今は池の底だけれども、刀岩という巨岩があって平家の落ち武者が運試しに切りつけた刀跡が残っているとか)からは、神社の垂れも赤いものに変わります。
八日谷とう名前は、能登原の戦いで敗れた平家の落ち武者たちが八日間隠れ潜んだ谷間なんだとか。
【能登原の戦いをはじめ、この時代の歴史背景の事を書いた私の過去記事はこちらから】
手ぬぐいや、下帯、下着などをはじめ一切のものに白を使わずに、色染めして使用していたらしいです。
上の写真達は「赤幡神社」のもので、ここには平家の赤旗が祀られている神社。
赤は保護され、「蛭でさえ人間の赤い血は吸わなかった」とか、白はタブーのため、白鷲も白い鳥獣たちもこの場所にはすまなかったという伝説もあるみたい。





平家谷観光は、お正月の3日だったこともあり観光客は私達家族だけ。
あちこちに書かれている看板目指して、車をその方向に向けて走るんですが。
綺麗に舗装されている道もあれば、今まさに工事中という場所や、↑のように車一台で精一杯という場所も。
車を転回させる場所あるかしら???ってドキドキしながら皆で進みました(笑)
もしくは、看板はそこまで何メートルって書いてあったけど赤い看板を発見できなかった場所などもあり、これからまだまだ整備されるというイメージでした
(私達が発見できなかった場所もあるかもですが・・・・・・・。根本的にこの赤い細い目印は、何箇所あるのだろう???平家谷全体マップのような地図が書かれた案内板にプロットされているわけではないので・・・・・・・わからないのです。これももしかしたら見逃しただけかもですが)



通盛神社」「しょうぶ園」「つばき園」はみんな同じエリアで、ここに向かう道は広くはありませんが綺麗な道♪
駐車場もあって、転回も可能です〜〜〜〜。
「お茶どころ」という看板は発見したものの、この日はお休み。
代わりに←の「平清盛」の旗を発見〜〜〜〜〜(*^^)v



↑こちらが、「通盛神社」で平通盛と(平清盛のおいっこ)とその奥様小宰相局の木像を祀った神社で、平家谷の氏神神社
小宰相局さんの木像は、通盛さんが彫ったという伝説も残っているようですが、この平家谷の地でこのご夫婦が生きて生活していたかが確実じゃないため詳細はわからず。
【平家谷と平通盛との話は私の過去記事で触れました】

鳥居が無いのも、「通盛神社」の特徴。
これは平家谷に逃げてくる直前の戦い「能登原の戦い」での敗因の一つに、白鷺の大軍を源氏の旗と勘違いしてしまったということがあり、そのために鳥を避けるということで鳥居がないとの説。


平家物語は高校の古文で習ったくらいの知識しかなかった私は、全く知らずにいたのですが(汗)
通盛&小宰相のお話は、平家物語で一章書かれるくらいなんだとか。
一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話として有名らしいです。
小宰相さんはこの時代の宮中一の美女だったそうで、小宰相さんが16歳の時に通盛さんの一目ぼれからスタートし恋が実るまでに3年の月日が経過。
3年間の片思いと思いきや、結局小宰相さんも通盛さんの事が嫌いではなかった様子。
最終的に3年の恋が実って、ラブラブ恋愛結婚で、とても仲良しだったんだとか。
何が悲話かというとこの幸せはとても短く、平家は都落ちをして夫婦は一緒に海に逃げていくのですが・・・・・
「一の谷の戦い」で夫が死んだ知らせを聞き、小宰相さんは屋島に向かう船から小鳴門の海に身を投じることに。
実はこの戦いに行く直前にこの夫婦は話をしているそうで、それは小宰相さんのご懐妊の話もあったらしい。
そして通盛さんは虫の知らせで自分が死ぬと思っていたため、奥さんに「どうなっても生き残り、子を育ててほしいと」懇願。
しかし通盛さんのいない人生は考えられないということで、入水自殺。
この時代は後追い自殺よりも出家することの方が当たり前の時代だったそうで、この小宰相さんの話は恋愛悲話として語りつがれているのだとか。
1179年ごろに出会い、3年間の片思い期間があり、亡くなったのが1184年2月とされていますから幸せな期間は短かったみたいです。。。。。
平家物語に残されているこのお話、今まで全く知らずにいた私って(汗)


どちらにしても平家物語が真実だと・・・平家谷にご本人たちは来ていないわけで。
歴史ってミステリーが残っているから、なんかワクワクするんでしょうね〜〜〜〜。これについては昨日の記事に触れたので、平家谷に来るまでの歴史は昨日の記事をどうぞ。
【平家谷に平家が逃げるまでの歴史の事を書いた、私の過去記事はこちらから】


さぁ〜〜て、こんな歴史のお話。
1/3に平家谷に行ったときは全く知らなくって、今行った方が歴史背景がわかってスッキリ気分で見れたと思う(笑)
当日地元の方に出会ってお話でもしていたら、もっと色々なことを知れたのかも〜〜〜〜〜。
上に書いた他にも
「湯舟神社」「貴舟神社」「鎧の峠」「乗り越え」「見張り所」「弓場」「館」「広場」「石亀神社」「殿方の前」「1本松」「平家さんの井戸」「喜勢」「黒血山」「福泉坊(小宰相さんおお墓があるらしい)」「古宮(現在の通盛神社は江戸時代にここから移築されたものらしい)」などの看板も。(貴舟神社をみつけられず・・・・)



広島県観光ホームページにも「平家谷横倉」として、平清盛ゆかりの地としてマップに掲載されていると昨日書きましたが。
【↑の平清盛ゆかりの地マップPDFはこちらから】
【広島県観光ホームページのトップページはこちらから】
平清盛ゆかりの地マップ」に掲載されている福山市の場所は3か所あるんですが。
このうちの「敷名の千年藤」というのを見ていない〜〜〜〜!!!!
このPDFマップに書かれた敷名の千年藤の説明は「清盛が高倉上皇を連れての厳島詣での帰途、敷名の浜に咲くこの藤を、高倉上皇が称賛されたとされる。見ごろは4〜5月。」との記述。
(もう一つは鞆の浦。こちらも平家を意識して観光をしたことがないので、鞆の浦もまた行きたい〜〜(*^^)v)
どこにあるのだろうと検索して出てきた住所は福山市沼隈町常石敷名というところまで(汗)
【ひろしま文化大百科というサイトに千年藤の説明あり】

福山市のHPを見てみたけれど、この千年藤は載っていないし。。。。。。
何気に千年藤の詳細場所がどこだかわららないんですが、PDFのマップを見る限り田島に渡るあたりの海沿いの道?????
行ったら看板とかあって気が付くかしら・・・・・・・・・。
見頃の頃には行ってみたい〜〜〜〜(*^^)v


さぁ〜〜て、今日からNHK大河ドラマ平清盛」がはじまる始まる〜〜〜(*^^)v
ルンルンな一日のスタートです(^○^)
【大河ドラマ平清盛の公式HP 人物相関図はこちらから】



このたびも歴史な苦手な私が、平家谷について今現在出会った本の内容や、伝承されていると書かれていたことや、色々なサイトで目にしたものを忘れる前にまとめてみたものです。
色々と諸説あるようですので、矛盾点が出てくる場合もあるかと思いますがご了承ください。

参考文献  
「図説福山・府中の歴史」監修土井作治 2001年出版
「図説写真備後の3000年」編著者村上正名 昭和57年出版
「備後の歴史散歩 上」著者森本繁 1995年出版
平清盛と宮島」著者三浦正幸 2011年出版  
NHK大河ドラマストーリー 平清盛」 2011年出版 などなど




より大きな地図で 平家谷への看板 を表示


場所については私の行った道では、平家谷への青い看板(普通の上についている道路の案内板)の通りに一度曲がったら、あとは道なりに進むだけ。
この青い看板のあった場所に自信がないのですが、たぶん上の青いピンあたりだったかと。
帰りは←のような看板を発見して、通盛神社から鞆の浦方面に行きたかったので「グリーンライン」に抜ける道を使いました。
これも看板通り道なりに進んで無事に到着しましたが・・・・・・。地図ではどこを通ったのかな(汗)




ブログを読まれた方へ
下のバナーを2つクリックしていただけると、ブログランクが上がって励みになります♪ おねがいしま〜〜す!

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へ   広島ブログ